友人がアメリカから一時帰国して、楽しい時間をすごした。やっぱり話が通じる人と過ごす時間はとても幸せだ。
せっかく帰国したので映画「靖国」を見に行った。幸運なことに、映像研究を専門とする友人が三人。素人の私にはこの三人の批評は、願ってもない解説になる。ラッキー!としか言いようがない。
この映画、いろいろと問題になったが、見ないことには議論にならない。問題になっていた刀匠のシーンもどんなふうに描かれているのか、気になっていた。
さて・・・結論から言うと、あまりにも靖国をめぐる人々のパフォーマンスが定型的で、笑ってしまいそうになった。笑ってしまいそうなのに、見終わったあたりで寒気がした。「ドキュメンタリー」っていうけれど・・・確かにここに描かれている出来事は現実にあったことなのだけれど・・・こうやって映像が編集されて、流れをもって見せられたときに、自分は一体どこへ連れて行かれるのだろう・・・・と不安にすらなった。映画ってこわい。
私が一番不快感をもったのは、人を排除する「声」。
「中国へ帰れ」と連呼する男性の声。声だけで人を威圧することに慣れた声だ。
低く、大きく、強く・・・怒鳴ることによって人を排除する。
コスプレも怖いと思った。
軍服を着て、彼らは一体どこへ行こうとしているのか。そこは完全に、時間的、空間的な異界にも見える。
身にまとうことで、時空を超えようとする人々は、今を生きるひとびとに何を見せたいのだろうか。
そして「刀」。
随所に挿入された日本軍が刀を使うシーン。今なお「靖国刀」を作り続ける男性。靖国の御神体は「刀」であるという語り。
イメージの連鎖は、一方で軍国主義の象徴としての刀を、一方で平和の象徴としての刀を、その狭間をゆらゆらしている。
「靖国は劇場」とはいうものの、それは実は「劇場」ではない。
劇場だと言い切ってしまうには、あまりにも生身の人間が自己を生きているように見える。
そして、劇場でパフォーマンスを観るように、ながめていられないほど、そこは生々しい。
映画館で、スクリーンを通して、コスプレの身体で、日常離れした映像。
どこまでもフィクション化されたものでありながら、それは今の私が生きる世界と完全につながったところにある。
それがゾクッとする理由かもしれない。