桃まつり。今、若手女性映画監督たちが、自らの上映の場を作ろうという動きがある。
 
 なんで「桃」なんだ?「桃」・・・たとえば桃の節句?そもそも桃だけでなく果実そのものは女性身体のメタファーで、おそらくは女性に対して「桃」のイメージを重ねる行為そのものは、本来男性の側からのまなざしなのだろうと思う。つまり、女性たちが自分自身に対して「桃」と名付けること自体が男性的視点の引用であるため、一歩間違うと自分をすくい取られかねない。しかし同時に、自ら名乗ることによって、自明視されてきた図式を顕在化させることもあると思う。
 
 このポリティクスをどのように利用するのか・・・女性たちの力が試されるところだと思う。
 
 「桃」をシンボルに選んだ時点で、すでに彼女たちは自らの女性性の刻印を引き受けざるを得ないわけで、その意味で「女」の監督であるというスタンスは、このイベントの中で切り離しがたいだろう。映画の監督であるということ、映画を製作するということにおいて、「女」であることが何のかかわりがあるのかと言う人もいると思う。また、女性の画家や作家の場合も同様で、男性中心社会の中で活躍の場を奪われてきたから女だけの場を・・・という説明もあるのかもしれない。ただ、私はそのことにあまり大きな意義があるとは思っていない。同じように、歴史に埋もれてきたからといって女性作家を発掘することも、それだけでは意味をなさないと思っている。
 
 それは「女性」で括ることには意味がない、という意味ではない。活躍の場を自ら作り出すことには当然大きな意義がある。それが女性監督という限定があることで、ゲットー化以上に得るものがあればよいわけだ。つまり自ら表明した「女性映画監督」という立ち位置をポジティブな力に変えていけば良いということだし、それによって観客に伝えるべきものがあればよいのだ。
 
 ちょっとしたご縁で、2010年の桃まつりの作品を拝見したので、感じたことを簡単に書きとめておきたい。個別の作品については、また別の機会に・・・・。
 
 今回の桃まつりのテーマは「うそ」。11作品すべてに、何らかの「うそ」がある。嘘の意味やコンテクストはそれぞれ違うが、表面的な嘘ではなく作品中で大きい意味を持たせたものが多かったように思う。逆にいえば、「うそ」というテーマの縛りがどの作家にも大きかったのか、「うそ」という虚構を偽りに作り出すことに創造力を費やしたのかもしれない。
 
 今更言うまでもないが、映画は虚構の世界だ。この虚構を構築するために労力を費やすことと、偽りの「うそ」を虚構の中に組み込むこととは、私には質の違うことに思える。この入れ子状の虚構をどう作り出すのか、大きな歯車と小さな歯車がうまくかみ合えば、観客にリアルな何かを伝えられるのだと思う。
 しかし、全編を通じて感じられたのは、「うそ」をつかねばならない必然性、「うそ」の動機が見えづらいということ。そのために一見してシュールな世界が繰り広げられ、登場人物が何に突き動かされているのか、それを共有するのが難しい。最後まで見て「なるほど・・・」と思うものもあるが、「・・・?」と思ってしまうものもあった。
 
 イベントの主要なコンセプトだと思うので、あえてこだわるが、作品を見て特に女性監督集団ということに、私がどうこだわったらよいのかという点も、少々困惑した。おそらく私だけでなく、見た人は特にこの作品群からフェミ的な視点を感じることはないように思う。別に女性監督だからフェミ的であれということではなく、不思議なほどジェンダーの視点がかき消されていることをどう理解したら良いのかと思ったりしたわけだ。
 その代りに強く感じ取れるのは、迷い、困惑、脅え・・・・のようなもの。通常大人なら考えられない動機なき嘘もまた、どこか幼い10代の少女のようなまなざしにも感じられる。むしろ10代の少女のまま大人になってしまった女性たちというような感じだ。と同時に、多くの作品がヘテロセクシャルな関係性に立脚していて、「うそ」はこのヘテロな関係性を強化する道具立てのように用いられるところは気になる。と同時に、なんとなくヘテロな関係性への疑いや迷いも描かれ、それぞれの作品が「うそ」を描きつつ虚構の果てにあるリアリティを示唆しようとしているのも感じられる。
 
 私が興味深かった点は、男性たちの描かれ方・・・・どこをとっても既存の理想化された男たちは登場しない。おそらくは男性たちが作り出した理想の男性像は必要ないのだろう。ずるかったり、弱かったり、あほみたいだったり、うたぐりぶかかったり・・・。それが「若手女性映画監督」たちのリアリティなのかはわからないが・・・。
 
 「うそ」をいかに描くのか・・・?またなぜ描くのか・・・?虚構だからこそ歯車が噛み合わなければ空回りする。空回りの加減もうまく機能すれば異化されたり、シュールな面白さになるかもしれない。でも、どこまでも空回りしたら、観客は一体どこに身を置いたらよいのかわからなくなる。だからこそ見る側に共有すべき立脚点を悟らせてほしいと思うのだが、どうだろう。
 
 「うそ」という虚構を、映画という虚構の中で描く。その「うそ」は、二重の虚構の中でやはり「うそ」なのかもしれないし、二重否定の帰結として「真実」なのかもしれない。若いこと、女性であること、映画を作る人間であること・・・・様々な要素の何がリアリティとして浮かび上がり、「うそ」の世界を観客に見せていくのかが見どころか。そんな理不尽な虚構の世界から、今の彼女たちが映画にかける「虚構ではない意志」を感じてほしい。
 
 そして、彼女たちが、回避せざるを得ないほどに自身に絡みつく「うそ」の世界を、いつか描いてくれることを大いに期待している。
 
桃まつり うそ
 3月13日~26日  ユーロスペースにて